黒い手帳3 | いわゆる認識の相対性

黒い手帳3

まとまった時間が取れなくてついつい遅くなってしまいました。ごめんなさ~い。


黒い手帳   


黒い手帳2  


 私は思わず絶句した。
 あぁ、そうだ、そういうケースだってあるのだ。
 真喜志さんは受話器の向こうで大きくため息をついた。
「お恥ずかしい話ですが、妹はこちらに居られないようなことをしましてね。どこに居るんだか、生きているんだか分からないような状態なんですよ。連絡一つ寄越すわけでなし」
「はぁそうですか」
「どうせろくなことをやっているわけじゃないでしょう、あなたもあんな女に関わりにならないほうがいい」
 電話口の声は冷たく響いた。
 でも、それならなぜ彼女は実家の連絡先など書いておくのだろう。いつかは戻りたいと思っているからで、それは肉親としての自然な感情ではないだろうか。確かに居られないようなことをしたのかもしれない。郷愁にかられ電話をかけて、懐かしい声を聞いたことの一度や二度あった事だろう。迷惑をかけてしまったことを恥じて、帰ることもちゃんと電話をかけることも出来ないのかもしれない。
 ただ、おそらく私の2倍くらいは年齢のいっているであろう相手に対して、とてもそんなことを言うことは出来なかった。
「でも…」
「こちらではもう死んだものとして諦めていますから」
 小娘には反論の余地の無いきっぱりとした物言いだった。これ以上は無理だ。
「えっとじゃぁ、手帳はどうしたら良いでしょうか」
 私のものではないものをどうしたら良いか分からなくなって私は思わず間抜けな質問をした。
「捨ててください。こちらに送ってもらっても困りますから」
「はぁ」
 何か割り切れない思いで、私は黙ったまま受話器を握っていた。
「朝岡さんでしたっけ?」
「はい」
「帰ってきたければ自分の育った家は忘れていないでしょう、そういうことです。もちろんあなたの親切はありがたいとは思いますが」
「分かりました、ではそのようにいたします」
 受話器を置いて私は呆然としていた。結局本名を聞きだすことも出来なかった。お兄さんにしてみれば単なるおせっかいということだ。でも彼女の思いは?この手帳は?ほんとに捨ててしまっていいの?実家との関係がどうであれ、彼女のほかの電話番号は?それは彼女にとってどういう人たちなのだろうか。


 アルバイトから帰ってきて改めてその手帳を見直す。いくら見直したところで、書いてあることは変わらなかった。私はしばらくその手帳を持っていた。彼女の思いが込められているような気がして捨てられなかったのだ。アルバイトを掛け持ちしていたために私は忙しかったし、その手帳に書いてある電話番号に電話をかけてみる勇気も時間も無かった。一日経ち二日経つうちに、返すに返すことも出来なくなってしまい、私がいろいろ考えていた薄幸な女の人は実はとんでもなくいい加減な人だったのかも知れず、まるっきり私の空想の産物なのだった。故郷に残した子供も居ない、毎月の5万円はヒモに買ってやった車のローンか何かで、けれど実際のところはやはり何も分からないのだった。


 それでも私は彼女が飲み屋で友達とから騒ぎをしながら、ふと故郷のことを思い出しているような気がしていた。彼女が何をしてこちらに来ることになってしまったのかは分からない。大阪から、なぜ東京に来たのかも分からない。大阪で何をしていたのかも、東京でどんな気持ちで居るのかも。
 けれど私の想像の中の女の人の唇はやっぱり真っ赤に塗られていて、暗い眼をしてグラスを煽っているのだった。