黒い手帳2 | いわゆる認識の相対性

黒い手帳2

タクシー代3000円
Tさんと食事
みえちゃんにプレゼント
三○BK5万
午後2時赤坂
など、その程度の記載しかない。住所録には2ページにわたって飲食店らしき名前が書いてあった。「黒鳥の湖」という有名なショーパブの名前も記されていた。ずいぶんいろいろな店を飲み歩く人なんだなと思った。
 個人の電話番号もいくつもあった。男性名、女性名。五十音順ではなくどんどん書き足して行ったような、そんな記入の仕方だった。始めのほうにはなぜか06で始まる番号が多くて、もしかしたら大阪から移ってきた人なのかもしれなかった。ペンのインクの色があるところまで一色でそこからはさまざまだ。去年の手帳から書き移したらこのようになるだろう。


 しかし肝心の勤めている店が分からない。必ずその手帳のどこかに書いてあるはずなのに。
その店に電話をして、沖縄出身の女性の名前を聞いて、店宛に送れれば一番良かったのに。
 今だったら、住所録からみえちゃんと書かれた人を探して、何日にプレゼントをくれた人が手帳を落としたのではないですかと聞くことが出来るだろう。20歳になる前の私にはそこまで思いつかなかったし、飲み屋や、風俗店に電話をかけまくるほどの意欲も無かった。
 そもそも私は自分の部屋に電話を持っていなかったからだ。

 少し不安を感じたのも事実だ。もしやくざなヒモなんかが付いていたらどうしよう。自分がそういう立場で、手帳を見ていろいろ調べて連絡を取ったことが分かれば決して愉快な気持ちはしないだろう。だからといって、何かされるとは思わないけれど。きっと近所に住んでいる人に違いない、持ち主欄の番号に電話して、翌日駅ででも待ち合わせればそれで受け渡せるようなそんなつもりだったのに。
 大阪の知り合いらしき人たちの電話番号は多分これが唯一のものだろう。この手帳を落とした人は困っているに違いない。しかし彼女の友人らしき人に電話をかけたとして、なんと言えばいいのだろうか。
 真喜志という姓が彼女の名乗っているものかどうかも分からない。もしかしたら姓が変わっているとも考えられるし、電話をかけた相手が、源氏名しか知らなかったらご破算だ。現に源氏名と思しき女性名前だけの電話番号もちらほら見られた。
 明日、駅前の交番にでも届けようと思っていたのだけれど、なんだか届けにくくなってしまった。交番に届けたところで、彼女が遺失物で探すとは到底思えなかったのだ。


 いろいろ思案の末、やはり彼女の家族らしき人に住所を聞くのが一番問題が無いだろうと思って、手帳を閉じた。そのとたんに私は自分のしたことについて恥ずかしさを覚える。興味本位であれこれ詮索するなんて、そりゃぁ多少は仕方が無いけれど、私は明らかに人の秘密を覗き見て喜んでいたのだった。
 それでもベッドに入りながら彼女についてあれこれ考える。指名の1とか2は多いのだろうか、少ないのだろうか。そもそも一日にどれぐらいの人を相手にするのか、私には皆目見当が付かなかった。指名の全く無い日もあって、あまり売れっ子じゃないのかしら。手帳から浮かび上がってくるのは真面目に勤めながらも、あまり売れなくて飲み屋で散財している女の人だった。いつの間にかきついパーマをかけた化粧の濃い女の人のイメージがひたすら酒をあおっていた。想像の中では真っ赤な口紅がグラスに付いていた。
 毎月三○銀行に入金されている5万は何のお金なのだろうか。もしかしたら故郷に子供を残してお金を送り続けているのかもしれない。


 翌日アルバイト先に行く前に公衆電話から電話をかける。50度数のテレホンカードで足りるだろうか… 
呼び出し音が6回ほど鳴ってがちゃりと電話をとる音がした。
「真喜志です」
男性が電話を取った。毅さんだろうか。
「えっとですね、東京の朝岡と申しますが、手帳を拾いまして、そこにこちらの電話番号が書かれていたので、ご家族じゃないかと思いまして。
そちらに、東京にお住まいのご家族はいらっしゃいませんでしょうか」
沈黙が続いた。
「あの、もしもし…」
沖縄まで電話をかけるのは初めてだった。不安になって声をかける。

「そうですか…。いま東京にいるんですか」