残像 その5 | いわゆる認識の相対性

残像 その5

普段どおりなんともなく家に帰ると妙子はぼくの顔を見るなり
「どうだった?」と聞いてきた。
僕はなんと返事をすべきか良くわからなかったので
「別に…」
とだけ答えた。ケーキの包みを見て確かに笑ってくれたけれど、心なしか目が笑っていないような気がする。彼女は何か問いたげで、その疑問符のついた目から顔を逸らして僕はソファに座り買ってきた雑誌を読んでいる振りをした。夕食の後ケーキも食べたけれど、雰囲気はいつもとは少し違った。それは今日に限ったことではなくて、先週の僕への申し渡し以来だ。


 どうして彼女の検査の前に僕に一言もなかったのか、それだけがぼくの中でブランコのように行きつ戻りつしている。検査の屈辱感もあったけれど、なんだか妻の考えていることがわからない。今まで彼女のことを分かっていると思っていたのは僕の思い込みだったのだろうか。それなのに、どうして僕はちゃんと聞けないのだろう。夕食の洗い物をしている彼女のうしろ姿がなんだか遠く思えた。それがなんだか寂しくなってつい呼びかけてしまった。


「なぁ、妙子」
「うん?」
「どうして、検査の前に一言相談してくれなかったの」
妙子はしばらく黙って食器を洗い続けていた。
「ねぇ」
彼女は相変わらず黙っていた。
「お袋になんか言われたの?」
「別に…」
何か隠し事でもあるのだろうか。やっぱりいつもの彼女と違う。
「二人のことなんだから…さ…」
沈黙が重かった。かちゃかちゃと食器の触れ合う音と、水音だけがその場を支配していた。やがて、タンと蛇口を止める音がして妙子がようやく口を開いた。
「黙っていたことがあるの」


彼女は食器棚から乱暴に布巾を取り出して今度は皿を拭き始めた。
「学生の頃、子供を堕したことがあるの。だから…」
僕はなんだか頭を殴られたような気がした。ショックだった。
「堕したって…」
「だからそのせいで子供が出来ないのかと思って…」


妻は次々と皿を拭いていく。彼女の声がどんどん細く小さくなっていく。
「わざわざ言うようなことじゃないし、だから…、だけど…隠すつもりも無かったんだけど…だけど…」
僕はただただ呆然としていた。
確かに、社会人になって知り合って付き合い始めて、前の男のことなんか聞いても仕方が無いし、僕も過去のことを言うつもりも無かった。お互いがはじめて付き合う異性じゃないのだし、そんなことがあったとしても、ちっとも不思議じゃないだろう。


けれどそのことと、自分の妻が以前にほかの男の子供を堕したことがあるということはまったく別の問題だった。