残像 その3 | いわゆる認識の相対性

残像 その3

病院

 妙子の言うことを聞くと、なるほど理屈にかなっていた。僕はそのうち自然に子供は出来るだろうと思っていたけれど、33になる妙子があせるのも理解できる。結局彼女の言いなりに来週の予約をとってもらうことにしたが、どこか釈然としない。彼女はいつ頃からそんなことで悩んでいたのだろう。どうして僕に話してくれなかったのだろう。
 新婚の頃、男の子がいいか、女の子がいいか二人で想像して笑いあった。僕たちは2,3人子供のいるごく普通の家庭を想像していた。結局そうなるかどうかもわからないのに男の子と女の子と言うことにして、おかしな名前をあれこれ考えたものだ。僕も彼女も、それきり子供の話をしたことがなかったように思う。それなのにいきなり精液検査なんて。ちょっと待ってくれよ、俺にも心の準備をさせて欲しいというのが正直なところだ。納得のいかないまま土曜日を迎えた。

 大学病院の看護婦にトイレの中で射精するように言い渡され、ビーカーを持って個室に入る。半ば呆然としてしまった。こんなところでいったい何をどうすれば良いのだろう。尿検査とは違うのだ。屈辱以外の何ものでもないではないか。10分ほどそのまま個室にいたが馬鹿馬鹿しくなってトイレを出た。ドアが壁に当たってバタンと大きな音を立てた。先ほどの看護婦を見つけて
「あのぅ、ちょっとその気になれないんですけど」
と言うと、年配の看護婦は申し訳なさそうに笑った。
「それはわかるんですけど、でもそれでは検査が出来ませんので」
事務的な口調だ。
「……」
「初めて検査される方は、皆さんそうおっしゃいますけど…時間がかかってもかまわないのでお願いします」
「そういう問題じゃ…」
「……」
 看護婦は気の毒そうな顔をして下を向いてしまった。
 仕方なく僕はもう一度トイレに戻った。
 再び10分ほど何度もため息をついた挙句、覚悟を決めて何も考えずに機械的に作業を始める。そう、作業と言う言葉がぴったりと来る。小さなビーカーの中に放出された精液が跳ね返って僕を汚した。暗澹たる気持ちでトイレットペーパーを丸めてそれを拭いながら僕は妙子に対して怒っていた。
 惨めだった。今までした中で一番惨めな自慰行為だった。いったいなんだって真昼間から僕がこんなことをしなくちゃならないんだろう。こんな思いをしなければならないんだったら子供なんて要らない。もう、二度とごめんだ。
 看護婦は「初めて検査される方は、皆さんそうおっしゃいますけど…」と言っていた。もし結果が悪かったりしたら何回もあれをやらされるのだろうか。みんなあんなことが我慢できるのだろうか。

 保険は利かないと言われていたのに、会計で請求された金額はたいしたことなかった。どうしても真っ直ぐ帰る気にならず、新宿でつまらない映画を見た後、パチンコ屋に寄る。普段はパチンコなどすることもないがどうしても家に帰る気がしない。妙子の顔など見たくない。


 何年かぶりに入るパチンコ屋は、タバコの煙で燻っていた。適当な台に座って打ち始める。初めのうちは次々に流れていく玉をただ無心に見つめていた。天釘のほぼ同じところに当たるのにその後の玉の行方はバラバラだった。玉が釘が当たるときの振動や、微妙な角度、風車の勢いや、タイミングで変わってくる。ひたすらへそを狙っているはずなのになかなか入らないのはなぜだろう。それでも何回かドラムが回転して台が点滅した。大当たりは出ない。自分のやっている行為の空しさを知りながらほかに行き場がないのが辛かった。夜だったら飲み屋に行くことも出来たのに。
 2枚目のカードがなくなるころ、なぜかパチンコ玉と自分の精液のイメージが重なった。僕はたまらなくなってその店を飛び出した。どうかしている。


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