残像 その2 | いわゆる認識の相対性

残像 その2

妻が耳栓を欲しがったことの合点がいった。エレベーターのボタンを押しながらまたしばらく彼女は荒れるのかなと思って僕は少しうんざりした。


 妻は昔から音に敏感だった。官舎の隣の家は子供が3人いて、その物音が彼女を始終苛んでいた。不妊治療に莫大な金額を費やしてしまった後で、すぐに引越しをするほどの余裕はもうなかった。もう彼女とはやっていけない。結婚したころの妻とは人が変わってしまったようだ。明るくて快活な妻はいったいどこに行ったのだろう。


友人の紹介で知り合った彼女とごく普通に恋愛して結婚した。編集者だった彼女は月半ばが忙しい様子だったが、概して楽しく暮らしていた。結婚して3年ほどたったある日曜の朝、突然それは始まったのだった。
「ねぇ、悪いけどR大学病院で、精子の検査をしてくれない?」
「えっ」
あまりにも唐突な言葉に僕は戸惑ってしまった。
「この間私検査に行って、特に異常がないって言われたのよ。ご主人に問題があるかもしれませんねって」
妻は淡々と言った。今までそんな話をしたことはなかったから、妻がそんなことを考えていたなんて知らなかった。
「妙子、それは、…そんなこと突然言われても」
妻に異常がないということは、僕に異常があるということだろう。そのことに思い至って、なんだか酷くプライドを傷つけられたような気がした。
妙子は淡々とトーストにバターを塗っていた。僕とは目を合わせない。
「今は生殖技術が発達しているから、多少のことだったらどうにかなりますよって」
僕は気分が悪かった。そんな大事なことを彼女はなぜ相談もなく一人で決めてしまうのだろう。
「土曜日だったら大丈夫でしょう、予約を入れておくから」
僕はむっとして言った。
「そんなこと、なんで独りで決めるんだよ。検査の前に相談ぐらいしろよ」
妻は気まずそうなようすも見せない。それどころか、どこか挑戦的な声の響きがあった。
「まず自分の検査をして、私に異常があったら相談しようと思っていたわよ。だけど異常がなかったから、あなたが検査してって言っているだけ」


確かに、実際的な妻の言うことは間違ってはいなかった。相談されても、一度検査をしようという結論にしかならない。今から言っても仕方がないのかもしれないが、どうせだったら一緒に検査を受けたかった。こんな風に相手に異常がないと言われてしまえば僕にプレッシャーがかかる。
「なんだか気分が悪いな」
「わかるけど…二人ともに異常がなくても出来ない場合もあるらしいし、だけど調べてみて、それからちゃんと二人で考えましょうよ」
彼女の言葉とは裏腹になんだか責められているような感じがするのは気のせいだろうか。僕に異常があったらどうしよう。なんだか濡れ衣を着せられたような、しかし、検査を受けてみなければ、実際のところはわからない。種無しの烙印を自分に押すのは嫌だった。


「わかったよ、そのうち行くよ」
検査なんか受けなくても、子供なんてそのうちに出来るに決まっている。だいたいこの間の夜だって、疲れているからと拒絶したのは彼女じゃないか。
「そのうちじゃ困るのよ、予約を入れないといけないから」
あくまでも食い下がる妻に僕は違和感を感じた。それがすべての始まりだった。