残像 その1 | いわゆる認識の相対性

残像 その1

その引き戸を開けると妻がいるはずだった。そして彼女になんと話しかけたものか、長い廊下を歩きながらずっと考え続けていたのに、いまだに答えは出ていなかった。出たとこ勝負と覚悟を決めてガラリと戸を開ける。
「妙子…」

力のない声しか出なかった。


妻はベッドの上に真っ直ぐに横たわっていた。看護婦が整えたのだろうか、きっちりと緩みなくかけられた布団のせいか、なぜか遺体を思わせた。妙子はパッチリと目を開け天井を眺めている。染みひとつない病室の天井を見つめているわけではないのだろう。僕はなんと声をかけたら良いのかわからずに黙っていた。


妻はやはり蒼白な顔をしていた。相当出血したと聞く。唇の赤みがいつもよりずっと薄かった。僕が部屋に入ってきたことを知っているのに、ちらともこちらを見ない。ただ、真っ直ぐに天井を見詰めている。いつものように唇はしっかりと閉じられて、こめかみの辺りは青みさえ感じられた。
こういうときに、なんと声をかけるのが正解なのだろう。いくら彼女の顔を見つめても答えは出なかった。


「残念だったね、次があるよ」もうきっと次はなかった。
「大変だったね、もう諦めよう」彼女の執念がそれを許すのだろうか。
「子供なんかもういい、二人で生きていこう」僕自身に彼女とやっていく自信がなかった。


突然唇が開いて、かすれたような細い彼女の声が聞こえる。
「神様って意地が悪いと思う」
僕は黙って次の言葉を待っていた。沈黙に耐えられなくなったとき再び聞こえる妻の声。
「予告編だけ見せておいて、……これでお終いなんて…」

「妙子」

見開かれた目が僕を拒絶するように閉じられた。僕は魔法にかかったように身じろぎ一つできないでいた。


病院

細い声は続いた。感情の感じ取れない調子。遠くの方から響いてくるようだった。

「悪いけど、今度来るときにi Podを持ってきてくれない?」
「あぁ」
「それと、売店かどこかに耳栓売っていないかしら」
「耳栓?」
「うん」
「今買ってこようか?」
妻はうなずいた。
「ほかに必要なものがあったら…」
「ママに頼むから…お金持ってる?」
「あぁ」
救急で運ばれたのだから着替えや下着が必要だろう。財布から2万円取り出して置き場所に迷った挙句、ベッドサイドのキャビネットの引き出しに剥き出しのまま入れた。
「じゃ、買ってくる」
居たたまれなくなって僕は逃げるように病室を出た。急ぎ足で廊下を歩いていくと、すぐ近くから赤ん坊の泣き声が聞こえた。


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