言葉の刃(やいば) | いわゆる認識の相対性

言葉の刃(やいば)

6年ほど前になるであろうか。心の母として慕っていたある先生がいた。
私はその女性に自分の母に甘えられなかった部分を甘えていた、と思う。
こちらが、勝手に母と思っていただけだ。

ある日その方から電話があって、意見を求められた。
自分の意見を言ったところ、誤解されてしまった。
今でも誤解だったと思っている。
何とか誤解を解こうと思ったが、ついに聞いてももらえなかった。
結局あれは何だったのだろうと今でも思うことがある。
多分、彼女はある理由があって、意図的にそれを行ったのだろうとしか考えられない。
何年も、そのことはとても辛かった。


全く別の機会に彼女が他の人に言った言葉で今でも鮮やかに覚えている言葉がある。

「たとえどんなに辛くてもその方に言って上げなければならない言葉というのはあるんです。
真実を言うことで相手も傷つきます。
相手が傷つくと判っていてもその方のためにハッキリ言わなければならないことはあるんです。
その方が、傷つくと判っていながらあえて言うことはわたし自身もとても辛いんですよ。
心の中で、どうか判ってと泣きながら伝える、その辛さが判りますか」


だから、多分彼女はそのときの私の意見を、わざと誤解したふりをしてまでも何かを伝えたかったのだろう。
そのことで彼女と私の関係が絶たれてしまうことになっても。

私は彼女が言いたかったことは理解した。
けれど、自分の意図が誤解されたままであるというのが結局辛かったのだ。
今ではきっとそれがそのときの私にとって必要だったのだろうと思う。
もしかしたら彼女は「私は赤の他人であなたの母ではありません」と言いたかったのかもしれないと思っている。


この記事を若い頃の私にどこか似ているいちごさんに捧げます。

くわかま二刀流