いわゆる認識の相対性

Amebaでブログを始めよう!

残像 その7

「だって若かったし、相手だって学生だったし……将来のことを考えたのよ…
それのどこが悪いの?もちろん良いことだなんて思ってやしない。ずっと罪悪感を抱えていたわ。……水子供養だってあなたには黙っていたけど毎年行っているわ。申し訳なかったって思っているわ……
そんなこといちいちあなたに話さなきゃいけなかった?あなただってそれを聴いたら嫌な気持ちになったでしょう。
だから……言えなかった、あなたのこと……好きだったから、余計に言えなかった…」


 すすり泣きながら言い訳をする彼女の言い分はもっともなのかも知れない。しかし自分の胸に吹き上げてくるこの感情をいったいどうすればいいのだろう。言葉にならないほどの怒り。屈辱。
 気が付くと自分の唇が震えていた。手はこぶしを握り異様に力が入っている。
「悪いけどとても酷いことを言ってしまいそうだ。ちょっと出て来る。先に休んでて」


 上着を引っつかんで僕は外に出た。ドアが閉まった瞬間、妙子のわぁっという泣き声が聞こえてきた。
 それを聞いても僕は何も感じなかった。むしろ彼女には当然の罰のように思える。冷たい風が僕の背中を通り越してゆく。いつもの街並みなのに、何かが違っている。違うように見えるのはなぜなのだろう。


 足は勝手に速い歩調を取り駅前に向かう。踏切を渡り、立ち並ぶ飲み屋の看板を見やりながら大量に酒を呷ったら忘れられるものなのかどうか考えた。
今は何も考えたくない。考えたくない。そう思っても裏切られたという思いが、憎しみに似た強い感情が体中から噴出して未だに固く握り締めた手に込められていた。


 あてもなく商店街を突っ切り、再び住宅街に入ったことに気が付いて、くるりとまた戻る。いくつもの明るい店、看板の光が僕に突き刺さってくるようだ。
 貸しビデオ屋、すし屋、ファーストフードの店、中古書店。僕の居場所は無かった。それでも足は勝手に動いていく。ふと漫画喫茶があったことに気が付いて次の角を曲がり店への階段を上った。
「いらっしゃいませ、当店のシステムは御存知でしょうか」
頷いた。
「ナイトパックで」
家に帰りたくなかった。妻の顔を見るのも嫌だ。リクライニングシートを選び、昔読んだサッカー漫画を5,6冊書棚から取り出してテーブルの上に置いて読み始めた。
どうしても漫画に気が行かない。目は確かにコマを追って台詞を読んでいる。それなのに頭の中では妙子を罵っていた。
なんて女だ。
水子供養なんかで許されると思い込んでいる。
俺は許せない、許せない、許さない…

でも海

この青い海は
昨日の海のように見える
ひと月まえの、一年前の海に


けれども海の水は
地球上を廻っている水で
私の足を濡らすこの波は
あなたが一昨日飲んだビールや
一週間前私が流した涙が含まれているかも
昨日のリンゴだった水分や
一年後に私の頬を掠める雪かも


いま私が立っている海は
誰にとっても初めての波
そして一度限りの水


でもそれが私の目には
なぜひとつの海なのだろう

昨日も明日も
永遠に変わることのないかのように
こんなにも青く澄んで



まどみちおさんの「空」という詩が、あまりにも私の今の気持ちにぴったりだったのでオマージュ

いつだってルナティック

そう昨日の帰り道、東から昇った月は
金貨のようにまん丸なのだった

私は近ごろこれまでにないくらい自分でいて
それは本当に幸せなことで
他の人から見ると少し常軌を逸しているのかもしれなくて
でもそれぐらい自分でいることは楽しいことなのだ


先月と同じように満月が昇る
先々月と同じように潮が満ちる
当たり前のように満ちたり欠けたりする月は
生きている私の心を引き上げる
引き上がった心は叩きつけられる

来月も同じように満月が昇る
来々月と同じように潮が満ちる


人にはどこかしら弱いところがあって、それを持っているから人間なのだと思う
どんな強い人でもそれはあるのだろう

そんな自分だって受け入れているつもりだけど
やっぱり嫌になってしまうこともあって
特にこんなに月の美しい頃
どこかの誰かにアキレス腱を握られている自分が哀しくなってしまう


鋼の身体を持ってしても、握られていた足首はそのままに…

どれほど強くなっても足首が痛めば立ち上がれなくて

「いつか」や「また今度」なんて言葉の裏側を十分わかりすぎているくらい大人なのに
それに縋り付いている自分の惨めさなんかも明らかに見えていて
先月と同じように満月が昇り
来月も同じように満月が昇るのだって何十億年保障なのだ


在るがままでいる
いつまでも欠けたり満ちたりする月のように
陽でいても陰でいても私はいつだってルナティックで
まるで満月のように丸い顔だと評された
高校生の頃と同じく
どこまでもの純化を自分に求めてしまうのだ


いい年をしてそんな子供っぽい自分で生きていくしか幸せを感じられない私は
やっぱりいつも、いつだってルナティック

月を見ている

縁台に寝転んで涼んでいる
月を見ながら

行く先はあいかわらず見えない
それでも安らいでいる


ずっと探してた、ここじゃないどこか
ようやく辿りつけた気がする

証言としてのブログ

大岡 昇平, 佐々木 基一, 埴谷 雄高, 花田 清輝, 平野 謙, 竹内 泰宏
証言としての文学

個人的興味から李珍宇 の事を調べている。「想像する自由―内部の人間の犯罪」(秋山駿)だけを読みたくて2ヶ月ほど前に購入。

アンソロジーであるから当然いろいろな作者のルポルタージュが読める。作家が生の体験を通して語る様々な状況は文学として力強さと、生々しさを備えている。

昔から私小説のようなものも多く存在するが、誰かの感じたこと、体験したことが書籍になる段階で当然その質が問われる。書籍にして商品にする以上一定のクオリティが保たれるのは当然のことだ。


けれど一般の人の感じたことは歴史の渦の中に埋もれていく。

20年も前に読んだ李珍宇の本も絶版になっており、なかなか調べるのが難しい。事件について書かれた週刊誌などは国会図書館にでも行かないと、もはや読めないだろう。



他のブログサービスで全く個人的な日記を書いている。日々の出来事、日常の不安、愚痴、ぼやき。およそ余所様にお見せすることの出来ない個人的記録。

いわゆるネット上のゴミだ。

思いついたまま、脈絡もなく書き連ねて、5分か10分で書く。構成も考えない、推敲もしない。 リンクひとつ、トラックバックひとつ打つわけでないそんな記録の読者が20人を越えた。

ゴミだと思ながら書いているのに慰めになっていると書いていただいて先日非常にビックリした。


現在何十万という人がブログを書いている。それらはやはり一般の人の生々しい証言だ。

自然と消えてしまうこともあるだろう。ただ、できるだけ消さないで欲しいと思うのだ。

どんな記録でも、いつか誰かの役に立つかもしれないのだから。


黒い手帳3

まとまった時間が取れなくてついつい遅くなってしまいました。ごめんなさ~い。


黒い手帳   


黒い手帳2  


 私は思わず絶句した。
 あぁ、そうだ、そういうケースだってあるのだ。
 真喜志さんは受話器の向こうで大きくため息をついた。
「お恥ずかしい話ですが、妹はこちらに居られないようなことをしましてね。どこに居るんだか、生きているんだか分からないような状態なんですよ。連絡一つ寄越すわけでなし」
「はぁそうですか」
「どうせろくなことをやっているわけじゃないでしょう、あなたもあんな女に関わりにならないほうがいい」
 電話口の声は冷たく響いた。
 でも、それならなぜ彼女は実家の連絡先など書いておくのだろう。いつかは戻りたいと思っているからで、それは肉親としての自然な感情ではないだろうか。確かに居られないようなことをしたのかもしれない。郷愁にかられ電話をかけて、懐かしい声を聞いたことの一度や二度あった事だろう。迷惑をかけてしまったことを恥じて、帰ることもちゃんと電話をかけることも出来ないのかもしれない。
 ただ、おそらく私の2倍くらいは年齢のいっているであろう相手に対して、とてもそんなことを言うことは出来なかった。
「でも…」
「こちらではもう死んだものとして諦めていますから」
 小娘には反論の余地の無いきっぱりとした物言いだった。これ以上は無理だ。
「えっとじゃぁ、手帳はどうしたら良いでしょうか」
 私のものではないものをどうしたら良いか分からなくなって私は思わず間抜けな質問をした。
「捨ててください。こちらに送ってもらっても困りますから」
「はぁ」
 何か割り切れない思いで、私は黙ったまま受話器を握っていた。
「朝岡さんでしたっけ?」
「はい」
「帰ってきたければ自分の育った家は忘れていないでしょう、そういうことです。もちろんあなたの親切はありがたいとは思いますが」
「分かりました、ではそのようにいたします」
 受話器を置いて私は呆然としていた。結局本名を聞きだすことも出来なかった。お兄さんにしてみれば単なるおせっかいということだ。でも彼女の思いは?この手帳は?ほんとに捨ててしまっていいの?実家との関係がどうであれ、彼女のほかの電話番号は?それは彼女にとってどういう人たちなのだろうか。


 アルバイトから帰ってきて改めてその手帳を見直す。いくら見直したところで、書いてあることは変わらなかった。私はしばらくその手帳を持っていた。彼女の思いが込められているような気がして捨てられなかったのだ。アルバイトを掛け持ちしていたために私は忙しかったし、その手帳に書いてある電話番号に電話をかけてみる勇気も時間も無かった。一日経ち二日経つうちに、返すに返すことも出来なくなってしまい、私がいろいろ考えていた薄幸な女の人は実はとんでもなくいい加減な人だったのかも知れず、まるっきり私の空想の産物なのだった。故郷に残した子供も居ない、毎月の5万円はヒモに買ってやった車のローンか何かで、けれど実際のところはやはり何も分からないのだった。


 それでも私は彼女が飲み屋で友達とから騒ぎをしながら、ふと故郷のことを思い出しているような気がしていた。彼女が何をしてこちらに来ることになってしまったのかは分からない。大阪から、なぜ東京に来たのかも分からない。大阪で何をしていたのかも、東京でどんな気持ちで居るのかも。
 けれど私の想像の中の女の人の唇はやっぱり真っ赤に塗られていて、暗い眼をしてグラスを煽っているのだった。

黒い手帳2

タクシー代3000円
Tさんと食事
みえちゃんにプレゼント
三○BK5万
午後2時赤坂
など、その程度の記載しかない。住所録には2ページにわたって飲食店らしき名前が書いてあった。「黒鳥の湖」という有名なショーパブの名前も記されていた。ずいぶんいろいろな店を飲み歩く人なんだなと思った。
 個人の電話番号もいくつもあった。男性名、女性名。五十音順ではなくどんどん書き足して行ったような、そんな記入の仕方だった。始めのほうにはなぜか06で始まる番号が多くて、もしかしたら大阪から移ってきた人なのかもしれなかった。ペンのインクの色があるところまで一色でそこからはさまざまだ。去年の手帳から書き移したらこのようになるだろう。


 しかし肝心の勤めている店が分からない。必ずその手帳のどこかに書いてあるはずなのに。
その店に電話をして、沖縄出身の女性の名前を聞いて、店宛に送れれば一番良かったのに。
 今だったら、住所録からみえちゃんと書かれた人を探して、何日にプレゼントをくれた人が手帳を落としたのではないですかと聞くことが出来るだろう。20歳になる前の私にはそこまで思いつかなかったし、飲み屋や、風俗店に電話をかけまくるほどの意欲も無かった。
 そもそも私は自分の部屋に電話を持っていなかったからだ。

 少し不安を感じたのも事実だ。もしやくざなヒモなんかが付いていたらどうしよう。自分がそういう立場で、手帳を見ていろいろ調べて連絡を取ったことが分かれば決して愉快な気持ちはしないだろう。だからといって、何かされるとは思わないけれど。きっと近所に住んでいる人に違いない、持ち主欄の番号に電話して、翌日駅ででも待ち合わせればそれで受け渡せるようなそんなつもりだったのに。
 大阪の知り合いらしき人たちの電話番号は多分これが唯一のものだろう。この手帳を落とした人は困っているに違いない。しかし彼女の友人らしき人に電話をかけたとして、なんと言えばいいのだろうか。
 真喜志という姓が彼女の名乗っているものかどうかも分からない。もしかしたら姓が変わっているとも考えられるし、電話をかけた相手が、源氏名しか知らなかったらご破算だ。現に源氏名と思しき女性名前だけの電話番号もちらほら見られた。
 明日、駅前の交番にでも届けようと思っていたのだけれど、なんだか届けにくくなってしまった。交番に届けたところで、彼女が遺失物で探すとは到底思えなかったのだ。


 いろいろ思案の末、やはり彼女の家族らしき人に住所を聞くのが一番問題が無いだろうと思って、手帳を閉じた。そのとたんに私は自分のしたことについて恥ずかしさを覚える。興味本位であれこれ詮索するなんて、そりゃぁ多少は仕方が無いけれど、私は明らかに人の秘密を覗き見て喜んでいたのだった。
 それでもベッドに入りながら彼女についてあれこれ考える。指名の1とか2は多いのだろうか、少ないのだろうか。そもそも一日にどれぐらいの人を相手にするのか、私には皆目見当が付かなかった。指名の全く無い日もあって、あまり売れっ子じゃないのかしら。手帳から浮かび上がってくるのは真面目に勤めながらも、あまり売れなくて飲み屋で散財している女の人だった。いつの間にかきついパーマをかけた化粧の濃い女の人のイメージがひたすら酒をあおっていた。想像の中では真っ赤な口紅がグラスに付いていた。
 毎月三○銀行に入金されている5万は何のお金なのだろうか。もしかしたら故郷に子供を残してお金を送り続けているのかもしれない。


 翌日アルバイト先に行く前に公衆電話から電話をかける。50度数のテレホンカードで足りるだろうか… 
呼び出し音が6回ほど鳴ってがちゃりと電話をとる音がした。
「真喜志です」
男性が電話を取った。毅さんだろうか。
「えっとですね、東京の朝岡と申しますが、手帳を拾いまして、そこにこちらの電話番号が書かれていたので、ご家族じゃないかと思いまして。
そちらに、東京にお住まいのご家族はいらっしゃいませんでしょうか」
沈黙が続いた。
「あの、もしもし…」
沖縄まで電話をかけるのは初めてだった。不安になって声をかける。

「そうですか…。いま東京にいるんですか」

黒い手帳

 昔、まだ携帯電話などなかった時代。皆それぞれ手帳を持ち歩き、住所録、予定表、つまりはその人自身がそこに記されていた。


 深夜、アルバイトの帰り道、立ち寄った公衆電話ボックスの中で私は目の前に黒い手帳を見つけた。何の変哲もないビニール革の表紙。私は辺りを見回したが、それらしい人物が見当たる訳でもなく、友だちへの通話を用件だけで終えると、その手帳を持ったままアパートへ帰った。
 部屋に戻るとインスタントコーヒーを入れ薄暗い蛍光灯の下でぱらぱらと手帳をめくる。
まず一番初めに手帳の後ろの方、持ち主の名前や連絡先が記入される欄を探した。何も書いてはいなかった。手帳の裏表紙の対面のページには整った女文字で
真喜志 絹恵
      毅
     幸則
と書かれていて、それぞれの名前の後に電話番号が記されていた。名前の書き方と電話番号から察するに、恐らく沖縄在住の家族の番号だろう。どこかの会社から、社員に支給されるような社名の入った手帳ではなかった。
 私はちょっと困ったなと思った。すぐに連絡先が知れて、翌朝電話でもすれば済むように思い込んでいたからだった。こんな遅い時間でなかったら、先ほどの電話ボックスで連絡しただろう。
 人のプライバシーを詮索するのは気が引ける。それでも、何かを覗き見るような強い好奇心が働いたのも事実だ。してはいけないことをする、言い訳めいた理由付け。


 早速日程表の欄を確認してみる。まず今日、無記入だったが右端に

と記されている。





と右端にだいたいその順番で延々記されていた。早は早番遅は遅番だろう。公は公休日だろうか。予定表にはその記号的な文字しか並んでいない。持ち主のこれからの予定は一切書いていなかった。


 前のページを良く見ると遅の隣に指と書いてあるところがある。指の後に、1とか2とかの数字が記入されていて水商売だと知れた。水商売ならこんな不定期な休みでは困るのではないだろうか。指名が入るような店は日曜日に休みなのでは…と、私の乏しい知識から推察する。
 日付を遡っていくと、生休という字が何文字か続き、ちょうどそのひと月前の日付にも生休と書かれた休みがあった。それからローションという文字が右端に書き加えられているところがあった。


 あらら、もしかしてこの人トルコ嬢?
 トルコ嬢の日常など私は知らない。
 私の好奇心は赤黒い色を帯びて、真剣にその手帳に魅せられてしまった。


 今ではソープランドと呼ばれているが、昔はトルコ風呂と言って、確かこの頃にトルコ大使館からの要請で名称が変わったのだと記憶している。
 中野にあったトルコ風呂は看板に入浴料5000円、サービス料8000円と書いてあった。サービス料というのは女性の取り分なのだろうか。通りすがりに見てそんな金額で身体を売る女性がいることが、当時の私には信じられなかった。そのほかにはアルバイト先の大人たちの会話の中や、男の友達の自慢話のような中からの貧しい知識。いったい春を売ろうなどという女性はどんな日常を送っているのだろうか。私は夢中になって過去のページを漁り始めた。


続く


残像その6

 聞いた瞬間、僕は彼女がほかの男に抱かれている様子を想像してしまった。なぜかその想像の中で彼女は僕に対してよりも淫らに振舞っているように思えた。嬌声までが聞こえてくるようだった。あらぬ想像と分かっていても僕の頭の中を埋め尽くして僕は彼女に対して怒っていた。いや怒りに似た強い感情、むき出しになった赤黒い嫉妬そのものだった。僕の子供は孕まないのにほかの男の子供は簡単に孕むのか。相手の男に対しても腹が立っていた。僕の妻が誰だか分からない男に汚されたようなそんな気持ちになった。得体の知れないどこかのだらしのない男に、そいつはろくに避妊もしないで彼女の心と身体を傷つけ、今こうして僕のことまで傷つけている。


 僕は彼女が伏せた目を開くときの柔らかな感じが好きだ。一輪挿しに挿す花の向きをあれこれ確認しているときの神経質な手つきが好きだ。僕が寝ているときに頭の上にふと置かれるやさしい手の重みが好きだ。ちょっと気が強くて僕が何か言うとむきになって言い返してくる、そのときの唇の尖り方が可愛いと思う。
 それはほぼ日常の中に埋もれてしまっているけれど、そういう瞬間僕は彼女と一緒になってよかったなと思うのだ。
 もちろん彼女の人間性を僕は信じていた。子供を堕ろすことと、殺人とどう違うのか僕はあまり考えたことがなかった。


 僕の教えている子供たちは肢体不自由の子供たちだ。さまざまな原因で障害を負っている。面談で介助に疲れきり、将来の不安を訴える親が、ときに投げやりになってふと「生まれてこなければ良かった」と呟く時がある。そんな時僕は言葉を無くす。僕は教師に過ぎず、彼らは僕の上を通り過ぎていくだけだからだ。彼らの将来や、人生を負っているわけではない。

 けれど子供たちが日々がんばっている様子を見ると僕は励まされるし、親たちも嬉しそうにしている。何度も何度も同じことを繰り返し、挑戦して出来たときの喜び。その嬉しさを顔中、体中を使って表現してくる。そんな時僕は子供たちの笑顔ひとつひとつが人間の存在の重さを表していると感じている。命は可能性そのものなのだと十年以上教師を続けてそう思った。だからどんな理由であれ、それを絶つというのは僕にとっては信じられない行為だ。

 胎児が人間なのかそうでないのか法的なことは良く分からない。けれど命はひとつの可能性であって、誰かがどうにかしていいものではないと思っている。結婚前まだ付き合っているときにそんな話を妙子にしたことがあった。あの時に
「そうね、私もそう思うわ」と優しげなまなざしで頷いてくれた。その妙子がそんなことをしていたなんて騙しもいいところ、偽善も甚だしいではないか。
 僕の抱いていた妻に対する気持ちがぐしゃぐしゃになって破壊されていく。いったいこの女はどういう女なのだろう。どういう神経をしているのだろう。僕の妻はこんな女だったのか。


気が付くとソファに座っている僕の足元に身を投げ出すようにして彼女は泣いていた。

残像 その5

普段どおりなんともなく家に帰ると妙子はぼくの顔を見るなり
「どうだった?」と聞いてきた。
僕はなんと返事をすべきか良くわからなかったので
「別に…」
とだけ答えた。ケーキの包みを見て確かに笑ってくれたけれど、心なしか目が笑っていないような気がする。彼女は何か問いたげで、その疑問符のついた目から顔を逸らして僕はソファに座り買ってきた雑誌を読んでいる振りをした。夕食の後ケーキも食べたけれど、雰囲気はいつもとは少し違った。それは今日に限ったことではなくて、先週の僕への申し渡し以来だ。


 どうして彼女の検査の前に僕に一言もなかったのか、それだけがぼくの中でブランコのように行きつ戻りつしている。検査の屈辱感もあったけれど、なんだか妻の考えていることがわからない。今まで彼女のことを分かっていると思っていたのは僕の思い込みだったのだろうか。それなのに、どうして僕はちゃんと聞けないのだろう。夕食の洗い物をしている彼女のうしろ姿がなんだか遠く思えた。それがなんだか寂しくなってつい呼びかけてしまった。


「なぁ、妙子」
「うん?」
「どうして、検査の前に一言相談してくれなかったの」
妙子はしばらく黙って食器を洗い続けていた。
「ねぇ」
彼女は相変わらず黙っていた。
「お袋になんか言われたの?」
「別に…」
何か隠し事でもあるのだろうか。やっぱりいつもの彼女と違う。
「二人のことなんだから…さ…」
沈黙が重かった。かちゃかちゃと食器の触れ合う音と、水音だけがその場を支配していた。やがて、タンと蛇口を止める音がして妙子がようやく口を開いた。
「黙っていたことがあるの」


彼女は食器棚から乱暴に布巾を取り出して今度は皿を拭き始めた。
「学生の頃、子供を堕したことがあるの。だから…」
僕はなんだか頭を殴られたような気がした。ショックだった。
「堕したって…」
「だからそのせいで子供が出来ないのかと思って…」


妻は次々と皿を拭いていく。彼女の声がどんどん細く小さくなっていく。
「わざわざ言うようなことじゃないし、だから…、だけど…隠すつもりも無かったんだけど…だけど…」
僕はただただ呆然としていた。
確かに、社会人になって知り合って付き合い始めて、前の男のことなんか聞いても仕方が無いし、僕も過去のことを言うつもりも無かった。お互いがはじめて付き合う異性じゃないのだし、そんなことがあったとしても、ちっとも不思議じゃないだろう。


けれどそのことと、自分の妻が以前にほかの男の子供を堕したことがあるということはまったく別の問題だった。